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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「何が彼女をそうさせたか」(帝キネ映画・故郷に帰る)
その後若い彼女は議員の小間使いとして仕事を斡旋されます。しかしブルジョワで高慢な奥様とお嬢様に疑問を抱き、自分をあざけ蔑む奥様に、啖呵を切って皿を投げつけるすみ子・・・。
はぁ?はい?あんた、ちょっと辛抱が足らんのんちゃう?
この時代、女が皿を投げるなんてね、70年代に星一徹がちゃぶ台ひっくり返すよりインパクト大ですよ。屈辱を跳ね返すその心意気は良しなんですが、「ヒトラーの贋札」で、ひどい屈辱に耐え、自尊心と引き換えに己が命を守ったユダヤ人たちを観たばっかりだったので、貧しいことは、命までは取られないのだと認識してしまいました。
そしてまた養育院に送り返されたすみ子は、その後琵琶のお師匠さん宅の住み込み女中となります。そこで偶然に新太郎と再会。その様子を見ていた師匠は、憎からず思っていた彼女に手をだしますが未遂。謝罪する師匠を尻目に、すみ子は新太郎の元へ。そして二人は晴れて結婚。
まぁここまで観るとね、いたいけな可哀想な少女を観る気で臨んだ私ですが、実に旺盛な行動力と生命力であると、感嘆しきりになります。鑑賞後に読んだパンフレットには「見事に少女の孤独を表わし」とありますが、どこが孤独やねん、ガシガシたくましく、運命を乗り越えてるじゃないかと思う私。
しかし幸せな生活も束の間、新太郎の仕事が失敗し、金の算段もつかなくなった二人は心中をはかります。しかし一命は取り留めます。そしてすみ子は、自殺しようとしたことで、宗教団体の「天使の園」送りに。ここで夫に宛てた手紙がバレ、(修道院のようなところなので、男に手紙を書くなんてもっての他)、みんなの前で懺悔しろと教主に迫られるすみ子。壇上で恥ずかしくて出来ないすみ子に代わり、事の顛末を話そうとして教主をすみ子はさえぎり、「私は何も悪い事はしていないわ!神が私を救ってくれるなんて、全部嘘っぱちよ!」と、教会に火をつけます(!!!!!)。そして逮捕。
あまりの出来事に目が点になる私。すみ子は大人になるに従って、どんどん自我が芽生え、耐え忍ぶと言う部分が全くなくなるのです。「全然歯を食いしばってませんでしたね」とその辺にびっくりした私に、シューテツさんいわく「プロレタリアは、歯を食いしばったら、あかんねん」、だそう。なるほど、怒りを社会に向けて、戦わねばならないのですね!
でもそう思うとですね、失業で心中というのは、如何にも軟弱なんと違います?それとも這いつくばって、体売ってでも生きようと言うのは、資本主義の手先であり、プロレタリアでは極悪なんでしょうか?(シューテツさんに聞いてみようっと)。私ならあんなに可愛くて若かったら、例え妾でも養ってくれそうな男の人を、まっ先に探すと思ったので不思議でした(へたれで申し訳ない)。
貧乏は諸悪の根源、格差社会を作る政治に全て罪がある、という作りでした。そう言えばすみ子の父の手紙は、文盲のすみ子は読めず、その他の人々も読めない人多数でした。思えばあの手紙をすみ子が読めれば、この悲劇は起こらなかったので、平等に教育を受けられないことを、批判していたのでしょう。
貧乏人は全て善で、支配者階級は全て悪という描き方は、資本主義にどっぷり遣った私には、少々違和感がありましたが、昔の虐げられた人々は、全てが歯を食いしばって耐え忍ぶと思っていたので、ある種痛快なすみ子の人生でした。この今の時代に通じる感覚は、すごく新鮮でした。でも当時は悲劇として受け取られていたのは、よく理解できる作りでした。最初と最後だけフィルムが欠けているので、台詞で修復していたのがすごく残念でした。こんな機会があれば、また足を運ぼうと思いました。上映に尽力して下さった皆さん、どうもありがとうございました。
02月17日(日)
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