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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「人が人を愛することのどうしようもなさ」
冒頭のインタビューで、新しい時代の女性像を語る名美は、その話と裏腹に、古典的な男に守られ愛される自分を追いかけて迷路に入ってしまいます。彼女が迷路から抜け出せなかったのは、女優だったから。彼女は芯からの女優だったのだと、虚実ない交ぜの姿の中に滲ませます。辞めてしまえば別の人生があったろうに。女優だったが故に、迷路に入った彼女を岡部は救い出せず、いっしょに迷路でもがくことになったのかも知れません。

アイドル時代の自分を観て、名美が当時の振付をして狂ったように歌い踊るシーンがあるのですが、居た堪れない心地になります。アイドル時代の若き日に、夫の愛が欲しくて路頭を彷徨い、抱かれる男を探す自分を、彼女は想像したことはないでしょう。頑張って芸能界で花開き大衆に愛されながらも、一番愛して欲しい人は、彼女を素通りしていくのです。

「花蛇」の杉本彩の体当たり演技には感心したものの、作品の内容が薄くあまり印象に残っていません。それに勝る芝居を見せた喜多嶋舞。彼女の量感のあるバストは、子供に乳を含ませた人のそれだと、画面に出る度私は感じました。離婚し子どもは夫の元の置いてきたという彼女。どういう経緯かはわかりませんが、売れっ子というほどではなくても、彼女くらい仕事をこなしていれば、子どもは育てられたと思います。この役は、家に帰れば子供のいる環境では、絶対無理な作品です。子供を手放しその痛みに耐えて、このような大熱演を見せる彼女は、まさに女優の本懐を遂げた心地なのではないでしょうか?

彼女の母内藤洋子は、「私は主婦が天職だ」という家庭的な人だと聞きます。離婚し子供を手放し、このような役を演じる娘には、さぞ複雑な気持ちでしょう。しかし輝くばかりの頃に引退した母といつも比較される娘は、さぞ辛かったのではないでしょうか?どうぞ女優の先輩として母として、この娘を見守って欲しいと思います。

それは監督だって同じこと。杉本彩や喜多嶋舞が「丸裸」になったのは、監督が「石井隆」だったから。この監督ならば、決して世間は自分の事を「裸女優」とは呼ばないと、全幅の信頼を寄せていたからだと思います。そんな彼女たちの監督を「愛する」心に応えるような作品を作り続けて欲しいと、同じ女性の映画ファンとして、節に望みます。

この作品を観て、あの東電OLや桐野夏生の「グロテスク」の和江を思い起こした人も多いと思います。私は女として名美のような飢餓感は持ったことがありません。思えば夫が私を粗略に扱ったとしても、この人は心の底では私を愛しているのだという自負がありました。それは私の勘違いだったとしても、夫にはそう妻に感じさせるだけのものがありました。よくも私のような租雑な女をと思うと、夫には本当に感謝したい気持ちになります。何故なら女性ならみんな、名美に陥る可能性があると思うからです。

09月11日(火)
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