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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「ボルベール<帰郷>」
根深い二人の確執の秘密は、驚愕の出来事でした。まさに歴史は繰り返すを地で行くような母と娘。絶望的な展開になるところを救ったのが、伯母パウラに何くれとなくよくしていた隣のアグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)です。彼女はイレーネが何故生きていたのか、多分知っていたのです。それを自分の命と引き換えに暴露することなく、周囲の人々の名誉と愛を守ったのです。この人としての品格は、この作品の品格に通じるのだと思うのです。

母の懐かしい匂いが香水ではなくオナラだったり、定職もなく身を売るしかない女性が出てきたり、ライムンダは家主に内緒でレストランを始めるし、ソーレは闇で自宅で美容院をやっているので、多分国家資格がないのでしょう。それに殺人。下世話なユーモアや活気があるけれど底辺丸出しの人々を描くこの作品から、一本筋の通った品を感じるのは、人間の格は社会的地位ではなく、どれほど人を思いやれるか、愛せるか、そして赦せるかだと教えているようです。

さてさて、何故期待値は割ったかというと、実は私の実母と祖母が長く確執がありまして。こんな驚愕の理由ではなかったんですが、とにかくプライドが高く気がきつい性格で似たもの同士なのに、自分たちだけがわからない。とあることが原因で、母が亡くなる15年ほど前から、一切母の実家の親戚とは行き来がなくなりました。当時父とも不仲の母の口癖は、「私は親運も男運もない」「私らの周りは敵ばっかりやで。あんたらを守れるのはお母ちゃんだけや」と呪文のように幼い時から繰り返し私たち姉妹に言い聞かせる母。母の敵であっても、私と妹の敵であるとは限らないと悟ったのは、私が大人になってからでした。

そんな母を私は内心疎ましく思っていましたが、思いと肉親の情とは別物だということもわかっていた私。若かったのに。今じゃその辺のおばちゃんの私ですが、環境とは人間を成長させるものですね。母の死が近くなり、祖母とは古い知り合いだった姑から、「このままではあんたのお母ちゃんが成仏でけへん。この世に心残りがないように、親兄弟と合わせる段取りをしぃ」と言われ、死ぬ一週間前から叔母たちに連絡を取り、頭を下げ、私の奮闘が始まります。

当時東京に叔父と暮らしていた祖母と、大阪住まいの三人の叔母たちの到着で、涙のご対面!と言う場面なのですが、「アイゴ〜、アイゴ〜」と号泣する祖母と、「誰?あぁ、お母さん・・・」と薄ら涙を流す母は、どう見ても芝居がかっているのです。だいたい「お母さん」なんて、言ったことないやん。いや人前では「お母さん」やったな。内輪では「お母ちゃん」でした(その後クソ婆となる)。それも他人さんではわからないという名演技で。横で観ていた私と叔母三人ですが、叔母の一人が「どうみても芝居やな」という言葉に、堪え切れず陰で皆クスクス。別の叔母の「お母ちゃんと姉ちゃんなら、こんな時でもやりかねんわ」で、またクスクス。振り回されていたのは、私だけじゃなかったんやわ。母は当時ガン細胞が頭に飛んでいたので、変なこともいっぱい言ってたのに、主治医や看護師さんたちの目をはばかり、芝居は出来たのよね。まーねー、「羅生門」では死んだ人間でも嘘つくんですから、いまわの際の人間が、まだ浅ましく生臭いのは当然なのかも。

こんなカタルシスのないブラックな経験があるので、ライムンダ母娘の確執の氷解も、セリフだけでちょっと物足らなかったですが、「普通のお母さんと祖母」をお持ちの方々は、あれで充分感動的だったと思います。母娘の歴史は繰り返す、を身をもって体験している私ですが、「息子三人やて、大変やね。一人でも女の子がいてたら良かったのにね」と、人さまは親切なお声かけをして下さいます。「そうですねん。女の子欲しかったんですけどね〜」と、いちいち説明するのも面倒だし、説明しても理解してもらうのに数日かかると思うので、こう答えてはいますが、こんなわけで私は娘が欲しかったことは一度もありません。


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07月10日(火)
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