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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「パッチギ! LOVE&PEACE 」
キョンジャが芸能プロへ入ったのは、チャンスの治療のためにお金が要るからでしょう。確かに就職差別も顕著だったあの時代、在日が大金を掴むのは芸能界とプロスポーツが手っ取り早かったと思います。アイドルの水泳大会で見せるキョンジャの気の強さに私はクスクス。上手く在日女性を表していました。愛した先輩俳優(西島秀俊)の表裏に翻弄され傷つくキョンジャは、当時こんな思いをした在日女性もたくさんいたろうなぁとしんみり。その後役を取りに行くため大物プロデューサーに抱かれに行くキョンジャには、褒めてあげたい気になりました。同じように「人種が違う」「三国人」など罵られ、自分見下げて遊び相手としてしか見ていない男なら、より力のある男を選ぶのは当たり前です。一見男に、運命に、弄ばれているようなキョンジャですが、男を食ってのし上ろうとしてるのは、キョンジャの方です。これくらいの根性やしたたかさがなければ、あの時代は世に出るのは無理だったのだろと思います。

しかしせっかく取った役なのに、あの舞台挨拶は何?映画は主演女優のためだけのものではありません。プロデューサー・監督・脚本・撮影・俳優・その他諸々の裏方さんの力が結集したもののはずです(一番権限が強いのはプロデューサーでしょうが)。それを様々な考え方があって当然の戦争について、自分の主張をハレの場所で朗々と語るとは。幾ら涙を流して話す事実であろうが、芸能界を引退する気であろうが、ぶち壊して良いことにはなりません。これを在日の芯の強さのように描くとは、正直呆然としました。在日であるという以前に、プロの俳優としてあってはならないことだと感じました。

あの時代、あの場面で自分の出自を告白したり、明確な自己主張出来るほど、在日の心は強くなかったはずです。確かにキョンジャのような人もいたでしょうが、お腹が膨れるほど言いたいことを我慢し、自分が在日という事を隠しながら、その葛藤と戦ってきた在日が如何に多かったか、一番知っているのは製作の李鳳宇だと思うのですが。そちらに焦点をあてる演出の方が、観客に感情移入や理解してもらいやすかったように感じます。私が前作で一番秀逸だと思った場面は、チョドキの葬式で笹野高史の語る演説ではなく、チョドキが康介に語る、「俺もほんまはけんかするのん、怖いねん。角を曲がったら100人くらい待ち伏せされてる夢みるねん。」というセリフだと思っています。

戦争映画に出演するキョンジャに呼応するように、日本兵としての徴兵から逃れるため、脱走兵となるアンソンたちの父ジンスンの若き日が描かれます。この事実がフィクションかノンフィクションかは、私にはわかりませなん。しかし脱走兵となっても生きて帰ろうというのが支持されるのは、今の価値観ではないでしょうか?戦争場面を挿入したいなら「俺たち在日は弾除けだ」という会話で充分だと思いました。戦地の場面はなかなか迫力があり、見応えがありました。しかしサモアの人は、当時腰ミノだけで裸で歩いていたんでしょうか?本当にそうならいいのですが、過度の土着性を強調して演出しているのなら、疑問が残ります。

過去の事柄を描くのは、とても繊細な感覚が必要だと思います。事実は一つでも歴史観には必ず表裏、様々な感想があるもので、充分な注意が必要です。何故ならこの作品は「在日を描く日本映画」のはず。日本の中での在日の存在を、自然なものとして認めて欲しい意図があるはずです。ネットや巷を席巻する謙韓派を納得させるには、全体を通してこの作りでは、配慮が足りないと感じ、反って隙を与えることになったかもと感じました。

在日の風景は、ごま油にメリケン粉を混ぜた物を湿布として使うのは、私の祖母も日常にやっていました。チャンスの病を祈祷で治そうとする場面は、実は体が弱かった私も経験があるんです。これも一世の祖母が巫女さんを呼んで行いました。オモニが一万円札を数枚、お供え物に突っ込んでいたのがおわかりになったでしょか?お金がないのにこんなバカバカしいことをやっていたんだなぁと、苦笑しながらも懐かしく思い出しました。今はとんとお目にかからない風景です。


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05月27日(日)
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