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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「カポーティ」
ここまでも息もつかせぬ展開で見せているのに、更なる追い討ちが。せっかく彼らの死刑で脱稿・出版の運びとなるはずなのに、控訴が認められ、死刑が延期になるのです。このままでは世紀の傑作となる作品は世に出せず、会いたい、弁護人を探して欲しいと頼むペリーを拒否するカポーティ。心から彼らの死を願うカポーティ。この事件の担当刑事(クリス・クーパー)に小説のタイトルを教えると、「それは事件のことか?それともあんたのことか?」と切り返されます。

これが小説家の業なのか?
ネットにこんな感想文を書いている私は、多分映画の次には、文章を書くということが好きなのでしょう。素人とプロの違いは、文章の上手い下手、お金をもらうため自分の信念を捨てて、悪魔に心を売って書くときもある、そういう認識でした。それは違ったのです。カポーティは悪魔に心を売るのではなく、自分が悪魔になる覚悟を持って書いているのです。どんなに筆が進んで、素晴らしい作品が仕上がっても、楽しいことなんかちっともないはず。楽しんで書くのは素人だけなんだ。納得出来るものが書けたらそれでいい、そういう自己満足じゃだめなんだ。自分の書いた作品から生み出される名声は、どんな快感や快楽にもきっと勝るのでしょう。遅々として進まない時間の経過は、私を心底戦慄させました。

そんな悪魔的なカポーティですが、皮肉にもペリーに請われ死刑の場の立ち会うと、「冷血」の大成功以降、小説が書けなくなってしまいます。創作から逃げた彼が求めたのは、麻薬にアルコール。カポーティのような才能あるひとでも、人はやはり悪魔にも鬼にもなれないのでしょう。彼の最大の理解者であるネル(あの「アラバマ物語」の作者)、パートナーのジャック(ブルース・グリーンウッド)も共に小説家ですが、彼らはこうした取材の果てのカポーティの姿が、多分予測出来たのではないかと思います。二人とも止めなかったのは、それを傑作と成す力を持つ小説家は、カポーティしかいないと思ったからでは?その事は作家冥利に尽きることだと、彼らは思っていたのかも知れません。役者が舞台に上で死にたいのと同じことなのでしょう。

事の成り行きが心配で、全てに上の空のカポーティに、「あなたが一番大切にしなくちゃいけないのは、ジャックよ」と語るネル。姉弟のようなキスのあと、彼女を見送るカポーティの丸くて狭い肩幅の背中は、まるで幼い子供でした。子供は分別なく見境なく、欲しいものは手に入れたがるもの。そして無邪気な笑顔で大人を虜にするのだ。大人であったカポーティは、虜にするものを残し自分は小説家として廃人となります。しかしネルやジャックは、その後も丸ごと全て、カポーティを受け入れてくれたのではないか?我がままで自我の強く破滅的、しかしこの上なく魅力的なカポーティに魅せられもした私は、この凍りつくようなお話に、暖かい体温を二人から感じたいのです。

10月06日(金)
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