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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「誰も知らない」
母親ばかりば責められた事件ですが、そうだったのでしょうか?明の姿をクローズアップすることで、是枝監督は無責任で何もしない彼らの父親達の行為を、同じ男性として、静かに観客に問いかけているように感じました。
お金が底をつき電気も水道も止めれ、公園のトイレで用を足し、公園の水道で水を汲み洗濯する日々。夜は明かりもありません。しかし空のカップ麺で草木を育て、上の子は下の子の面倒を見、コンビニ店員の好意で賞味期限切れの食べ物をもらって飢えをしのぐ彼らのたくましい生命力、太陽の下の嘘偽りのない笑顔、せっかく出来た友人の誘いに乗らず万引きもしなかっ明。この正しさは何なのか?
彼らほどではなくても、明たちのように子供だけで過ごす日々が多い子たちが、私の周りでも自分の子供を通じて何人も通り過ぎました。お母さんが帰って来ないため、夜までうちで過ごさせたり、お昼ご飯を作って食べさせたり。しかし私は心配こそすれ、その子達にそれ以上の事はしてあげられません。
みんなみんな素直な良い子たちでした。そして本当に誰もお母さんの悪口を言わない。学校に来なくなったそんな中の一人を案じ、一生懸命になっていた担任の先生が、我が家で過ごすことも多かった、その子の様子を尋ねに来られたこともあります。先生は「悪口を言わないのではなく、恥ずかしくて言えないのですよ。」そう仰いました。私も同調しました。そして世間と同じように私も心の中で、そのお母さんたちを裁いていました。子供の世話はしても、そんないい加減な母親とは接したくない、そう思っていました。目の前の現実に惑わされ、そんなお母さんを孤立させてしまっていたのです。
私は間違っていました。うちの子もその子たちも明兄弟も、そして子供はみんなみんなお母さんが好きなのです。心の底から好きなのです。だから悪口を言えないのではなく、悪口などないのです。こんなお母さんに育てられたのに、こんな素直な子に育った、のではなく、このお母さんが生んで育てたからこそ、この子たちはこんなに素晴らしい子なのです
私に出来ることは子供の世話でなく、私も持っていた世間の敵意に囲まれたお母さんと話しをすることでした。ここしろ、ああしろと教えるのではなく、天気の話、子供の話、学校の話、取り留めない世間話でいいのです。この人は話しかけたら喋ってくれる、そう思ってもらうことですた。「今日の晩ご飯、何にするの?」そんなありきたりの会話をかわし、夕食を作ることを思い出してもらうだけで良かったのです。どんなにごちそうを用意したとして、その子たちの母親の握るおにぎりに、かなうはずがないのですから。
この作品はまぎれもない日本映画です。この情感、美しさ、誰を責めるのでもないのに、切々と観客の心に問いかける静けさ。ハリウッドでも韓国でもイギリスでも、決して作れない作品です。柳楽クンの受賞は、この作品に携わった人全部への御褒美かと思います。
08月08日(日)
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